続・家づくりの玉手箱 2021.10.04

『穴ぐら』を探す旅

 

 

クスノキの「生命力」

 

昨年夏に剪定した楠木の緑が復活してきました。

 

剪定直後にはあまりにも坊主になりすぎて「これは吹いてくるのに2年ぐらいはかかるのではないか」と思ったのですが、なんのことはなく1年でいい感じに復活しました。剪定した際には明るくなって遠くの景色もよく見えるようになったのですが、この場所のウィークポイントでもある電柱や電線も室内から間近に丸見えとなっていました。このあたりも、1年経過でほぼ見えなくなりました。ちゃんと役割のある植物の葉っぱは、成長が待ち遠しいものです。

 

昨年の剪定の様子は、オリンピックイヤーの『庭木剪定』 をご覧ください。

 

これまで3回ほど大規模な剪定を行っていますが、剪定前には枝が伸びきって先っちょがどんどん茂り、木の中心近くの幹まわりの葉っぱの密度が空いてくる状態になってきます。剪定後は切り詰めた幹から改めて新しい枝が伸びてきますので、木の中心近くも葉っぱの密度が増してきます。ちょくちょく自分で枝を切ったりしたときのアンバランスなところも、この機会にリセットされて自然な樹形になっていきます。

 

↑剪定した直後は「切りすぎたっ!」と思ったのですが(2020年7月)

 

↑一年経てばちゃんと吹かし直してくるすごい「生命力」

 

 

↑夏なのに枝だけになってしまった剪定直後の室内からの様子(2020年7月)

 

↑次の夏にはすっかり緑の世界に戻りました

 

 

未だに見つかる新しい『穴ぐら』

 

この家が出来上がった際には「完成見学会」が開催されました。その際のお客様への案内文にはこのように紹介されていました。

 

 

それはまるで 「 穴ぐらの中に居るような 」 ちょっと味わい深い 家 です。 

 

 

これは、設計者が完成前の現場を訪れて感じた「印象」によるものです。当時、現場でご一緒していた際に「穴ぐらのような家だよね。ここは。」というコメントがあったと記憶しています。そのときは、「穴ぐら」とは、褒め言葉なのか?その逆の形容なのか?にわかには理解できなかったのですが「完成見学会」の案内文に書かれているということは、褒め言葉だったのだと思われます。

 

見学されるお客様の大半は「穴ぐら」と言われると「なんだそれ?いいのか悪いのか良くわからない」という印象を持たれるでしょう。しかし、その先に「ちょっと味わい深い」と書いてあるので、多分いい感じなのであろうと「期待感」を持ち現場に出かけてみたくなったのではないかと想像します。今改めて見てもシンプルながら卓越した表現です。

 

その名のとおり、自宅には「穴ぐら」的な居心地の場所がたくさんあります。完成見学会でももっぱら評判だったポジションは「穴ぐら」感のある、狭いのに居心地がいい場所でした。「適度な囲まれ感がありつつも明るくて風通しのいい気持ちのいい場所」がその時の「穴ぐら」の定義であったようです。

 

住み始めて19年になりますが、未だに新たな「穴ぐら」を発見することがあります。どうして今頃になって?と思うのですが、これは庭木の成長や住まい手自身の変化によるものが大きいことに起因しています。「同じ人」が住んでいても、時期や年齢が違ってくると「同じ感覚の人」ではないのです。

 

↑19年間この家に住んでいて、ここに座る「発想」がなかったのですが…

 

↑座っている場所は狭いのに、感じる広さと居心地は想像を超えているのです

 

 

↑窓を開放すると、リビングの隅のようでいいのですが…

 

↑ピシャッと網戸まで閉めて狭くなってしまったほうが、より落ち着くのです

 

 

↑図面で見ると、こんな場所です(朝夕いい感じで過ごせます)

 

 

季節限定、旬のある『穴ぐら』

 

最近秋めいてきて、もうひとつ『穴ぐら』を見つけました。
これまで長年ゴミ箱置き場としてきましたが実際にはゴミ箱はいつも空で、それほど利用できていなかった場所です。カーポート上に家庭菜園を作ったので、ここに置きっぱなしだったゴミ箱は雨水を貯めるタンクがわりにとカーポート上に引っ越したのでした。

 

ゴミ箱がなくなって広くなっていたので椅子とテーブルを置いてみたら、これまた意外にいいのです。夏場も日中ずっと日陰で風の通り道になっていて涼しいし、敷地の北側に植えてある金木犀(キンモクセイ)が咲くときには、そよ風とともにその香りに包まれます。椅子を持ち出して東に向いて座ってみると、身のまわりは狭いのに視野は広く明るくいい感じで『穴ぐら』と呼ぶにふさわしい。木が小さいときには思いもよらなかった居心地でした。

 

南と西に向いたデッキは出ていって楽しむ場所、北側のデッキはゴミ箱を置く場所といった設計時点での「先入観」みたいなものがあって、19年間疑うこともなかったのです。「先入観」から出来上がった「無意識」を打ち破るのは、いつも「実体験」です。ひょんなことや、きっかけで多くのことが単なる「思いこみ」であったことがパッとわかる瞬間があるのです。住まい手が気づくまでの19年間毎年毎年、金木犀の花のころに「ゴミ箱」たちは毎年ここでいい香りに包まれていたのです。

 

↑長年「ゴミ箱」を置いていた場所に座ってみる。ここも意外といい

 

↑勝手口からの出入りもなんとか出来ます

 

 

↑目の前には金木犀と樫の木、家庭菜園の緑が拡がっています

 

↑四季咲きの金木犀は花の色も香りもひかえめですが、年に何回も花が楽しめます

 

↑金木犀の花が咲いたらココです(香りの玉座です)

 

 

自宅が設計された頃、まだ入社して1年程度でした。シンケンスタイルの何たるかはまだまだほんの一部しか分からない頃でしたが、当時から「居場所が自由になる家がいい家なのだ」とよく言われたものでした。プラン当初にも「今の家で使っているものはできるだけ持ち込まないように」と勧められましたが、そうは言っても持ち込みたいものだらけで戸惑った思い出があります。

 

家具などが少なく、シンプルで開放的なお引渡し前の完成見学会場などでは「どう住めばいいのか分からない??」と戸惑いとともにお客様から言われてしまうこともしょっちゅうでした。その中で「居場所が自由になること」がなぜいいのか?をいかにお伝えするのかは大きな課題でした。「居場所の自由のため」とはいえ「今の家で使っているものはできるだけ持ち込まないように」ということだけを強調していると、いくら家がかっこ良くてもお客様から好かれなくなってしまうからです。

 

しかし、その後19年住んでみて「居場所が自由になる家」のその意味がよくわかってきました。「やっと今ごろ?」と言われてしまいそうですが、家が出来てからのその先の、様々な「変化」を織り込んで判断された設計の凄さというものを感じるのには年月が必要なのです。「居心地」というようと曖昧で捉えにくく難しいもののようですが、「先入観」を取り払えば根本は「単純」でもあります。

 

住まいづくりをするのに10年も20年も先のリアリティを持って考えることができる「つくり手」や「住まい手」がどのくらいいるものでしょうか?あまりいないように感じますが、それ故に「住まいづくり」が本当の意味で成功しないのかもしれません。「挑戦」する価値のあるテーマであると思います。

 

 

社長の会社では住まいのプランニングを自社でされていますか?また、その際に住まい手の居場所は、時の経過とともに自由選択できるようになっていますか? 

 

 

 

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